【冒険ダン吉 百萬ドルのハーモニカ】
著者:島田啓三
版元:キング音楽出版社
昭和24年2月1日発行
定価:75円
戦前漫画で御馴染、冒険ダン吉の昭和24年に出されたものである。版元が音楽出版社というのが珍しい。冒険ダン吉は通常絵物語風、つまり挿絵付きの活字で構成されているが、この戦後版は、ほぼコマ漫画で構成されている。島田啓三の実に味わい深い画風は戦後も健在である。特筆すべきは、作者自身が読者に向けて以下のメッセージを送っている。
【私は児童漫画を終生の仕事として、いつも皆様の心に入って仕事をしています。(中略)良い漫画ー冒険ダン吉は今後も続けて描くつもりですが、必ずこの良い漫画という点だけ、はっきりとお約束できます、御愛読下さい】
このメッセージの赤い部分は当時、社会問題視され始めた赤本漫画への批判が含まれているような気がする。手塚治虫は、自身の自叙伝で島田啓三宅を訪れた時のことを以下のように語っている。
【僕が戦後初めて東京の街を見たのは昭和22年の夏だった。(中略)僕はすでに何冊かの単行本を出し、ことに「新寶島」は東京でもよく売れていたので、威風堂々(?)と社の玄関をくぐった。が、やはり井の中の蛙であった。「もう少し絵を勉強なさってください」と慇懃に断られた。腹が立って練馬の島田啓三氏のお宅を訪ね、「新寶島」を見てもらった。「こりぁ、漫画の邪道だよ。こんな漫画が流行ったら一大事だ。描くのはあんたの自由だが、あんた一人にしてもらいたいね」】
島田御大の言葉は的中した。その言葉どおり「新寶島」が流行ったことで一大事になり、戦後の日本漫画文化が大きく激変していったのだ。上に示した作者自身の当時のメッセージを思うと、この戦後版冒険ダン吉を赤本漫画に入れることは故作者の逆鱗にふれそうだ。が、昭和24年の赤本漫画全盛期に出版され、本の装幀や厚み、中身の印刷等を見ているとどうしてもカウントしたくなるのである。私自身の赤本漫画への美学に免じて故作者には許していただきたいと思う。仮に、島田御大が今生きていたら、今の少年漫画を見てどういう言葉を発したであろうか?、興味深いものである。
参考文献:手塚治虫「ぼくはマンガ家」